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" 【質問】  なぜ日本の宣戦布告文書手交は遅れたのか?  【回答】  駐米日本大使館の怠慢.ちなみに,この件について,責任者は何ら処罰されていない.  以下,抜粋要約. 野村大使の応援として,11月15..."

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 【質問】
 なぜ日本の宣戦布告文書手交は遅れたのか?

 【回答】
 駐米日本大使館の怠慢.ちなみに,この件について,責任者は何ら処罰されていない.

 以下,抜粋要約.

野村大使の応援として,11月15日に来栖三郎が特派大使として着任した時点での大使館員は,両大使を含めて28人.両大使以外の幹部は,公使・若杉要,参事官・井口貞夫(館務統括)の他,1等書記官が奥村勝蔵(政務),松平康東(条約),寺崎英成(情報),結城司郎次(来栖大使付きとして出張)の4人.電信官は堀内正名だった.
 他に,ワシントン市内で独立していた陸軍と海軍の武官事務所が,日米交渉決裂の事態を予測して9月に事務所を閉じ,大使館に移ってきていた.その陸海軍武官と武官補佐官が計6人.米国人の雇員は,タイピスト3人と運転手など計8人.

 既に状況緊迫化は,武官事務所転入に続く幾つもの『非常措置』によって,充分に館員にも感知されていなければならなかった.
 10月16日には外務省から大使館全員に,「帰国準備を始めよ」の訓令が来,10月30日には公邸の日本人料理人夫婦が,帰国のため解雇され,以後,大使の食事は日本人職員が調理.
 11月20日には本省から,「日米国交断絶の危機が迫れば,日本の海外向け短波放送の気象情報の最後に,『東の風,雨』を2回繰り返す.それを聞いたら緊急態勢に入れ」との訓令.
 ハル・ノートが出た11月26日以後は日米間の緊張は極に達し,12月1日には寺崎書記官ら6人に,急な出発を命ずる異例の転勤命令.後任の補充発令ない.
 翌2日,暗号機3台の内2台を破壊せよとの訓令.暗号機は粉微塵に砕かれ,深夜,ポトマック川に投棄.
 12月3日,遂に「東の風,雨」の放送.

 その3日後,12月6日,土曜日.
 午前中早い時間に,短いパイロット・メッセージ(予告訓令.901号電)が入る.電報は民間電信会社が配達する.901号電は,これから11月26日の 米国案(ハル・ノート)への覚書(回答)を,長文だから14部に分け,別伝(902号電)で送る.全部届くのは明日になるかも知れぬと言い,さらにこう付 け加えていた.
「右覚書を米側に提出する時期に付ては追て別に電報すべきも右別電接受の上は訓令次第何時にても米側に手交し得る様文書の整理其の他予め万端の手配を了し置かれたし」
 さらに別電(904号電)が来て,902号電の清書には米人タイピストを使うなとの指示.
 続いて902号電が入り始め,13部までが午後3時までに配達された.
 堀内以下電信室担当者6名は,1台になった暗号機を使って解読を進め,解読を終わり手書きされた電文は,その都度奥村書記官と,公邸の両大使に届けられた.

 このとき奥村がパイロット・メッセージの指示通りに,「何時にても米側に手交し得る様」にするために,すぐにタイプ清書を始めていたならば,宣戦布告手交遅れは起こらずに済んだ.
 しかも,1本指での雨だれ式ながら,なんとかタイプが打てる者は彼だけだったというのだから,902号電清書は自分がやらなければならない事は,奥村には分かっていたはずだった.

 だが奥村はやらなかった.

 彼はその夜8時頃から,結城書記官と6人の電信室担当者を呼び,メイフラワー・ホテルの中華料理店で,転勤の出発が遅れている寺崎書記官を送別する夕食会を開く.
 同じ時刻に井口参事官も,松平書記官と藤山ら若手外交官補など計6~7人を中華料理店「チャイニーズ・ランタン」の個室に集め,寺崎書記官を送別する夕食会を開く.
 3人の一等書記官がお互いに仲が悪いため,同じ晩の同じ時刻に,同じ職場の同僚達が,2ヶ所に分かれて送別会を開いたのだ.
 寺崎書記官は気を使い,両方の夕食会に,時間をずらせて出席した.
 しかも,寺崎の正式の送別会は既に終わっていた.この晩の送別夕食会は予定されていたものではなく,奥村と井口が,自分と仲の良い者達を「夕食に行かないか」と誘って,寺崎を送別する夕食会にしたものだった.
 かくして大使館事務所は,幹部も電信室員もおらず,奥村の机中には902号電が未清書のまま,という状態に.

 夕食会を終わった2つのグループは,電信室関係以外の者は殆ど帰宅.
 電信室員は10時頃に大使館事務所に戻り,902号電解読の続きを再開.
 13部目の解読を終えたのが,翌7時午前3時頃.
 14部はまだ届いていなかったので,そこで帰宅.
 井口参事官も事務所に戻ったが,既に電信室に「適当に切り上げよ」と声をかけて帰宅しており,奥村参事官も既にそれ以前から姿が消えていた.アメリカ人知人の家に,トランプのブリッジをしに行ったからだ.
 大使館事務所に残ったのは,通常通りの当直者,20過ぎの館務補助員ただ一人だった(電信室員が一人残ったという説あり)

 彼らに緊張感が欠けていたのは,かねて野村大使に非協力的態度を取ってきたからだった.その理由は,野村が予備役海軍大将であって外務省の人間ではない ことに加え,井口は日米交渉不成立を望む軍部に盾突きたくないとの事情があることだった.また,奥村にも日米交渉には深入りしたくないとの態度が見られ た.

 12月7日,日曜日.海軍武官補佐官,実松実中佐が午前9時に出勤してくる.すると玄関のドアの前に,配達された新聞が山となり,郵便受けには電報が溢れんばかり.
 その電報の中に,902号電の14部と,そして米側に覚書手交時間を指定した訓令電報(907号電)が入っていた.
 当直者は早朝から教会に行っており,事務所は無人だった.

 9時より遅く出勤した奥村は,ようやく机中から902号電を取り出し,1本指の雨だれ式タイプ打ちで下書きを始めた.彼はおそらく,日曜日一日をかけて 13部の下書きと清書をする内に,14部と,手交時期指定の別電が来るだろうと考えたのではないか? 電信室員もそう証言している.
 つまり奥村書記官は,この緊迫時に,「何時にても米側に手交し得る様」「万端の手配」をしておけとの本省命令を守らなかった.

 午前9時過ぎから10時までに出勤した電信室員達が,「大至急」指定のある907号電を解読すると,それば覚書の手交時間指定の訓令だった.
「7日午後1時を期し米側に(成る可く長官に)貴大使より直接手交あり度し」
 時に10時10分.堀内電信官が血相変えて奥村に届ける.事務所は一転して緊迫.
 のんびりと902号電13部までの途中をタイプしていた奥村は,懸命に打つが,かえって緊張して間違えて,またそのページを最初から打ち直すなどして,余計に遅くなる.
 奥村の周囲には,他の書記官らが集まり見守るが,誰一人手伝う者はいない.職員の中にはやはり雨だれ式ながらタイプができる者が何人かいて,手伝いを申し出たが,奥村は拒否したと,戦後に証言した者もいる.
 11時には902号電の14部が解読されたが,まだ13部までが途中までしか清書されていない.

 14部は短い文章で,明確な宣戦布告の言葉はなく,ただ交渉打ち切りを告げていた.だが日曜日に,しかも午後1時と限定して,さらに国務長官に直接渡せ というのは,もはや意味するところは明らかだ.「マジック」(日本外交暗号解読機)で902号電14部と「午後1時手交」訓令を読んだホワイトハウスと国 務省は,戦争を確信する.
 だが日本大使館では,今なお国交断絶即戦争とは思わなかったとは,後の証言者の談.

 正午が過ぎる.もはや午後1時にはとうてい間に合わない.野村の秘書が国務省に電話し,面会を午後1時45分に延期してもらう.
 だがそれにも間に合わず.
 ようやく清書が終わった覚書を持ち,両大使の車が大使館を出たのは,午後1時50分.真珠湾攻撃開始から25分後だった.
 攻撃を知らない両大使がハル長官に面会したのは2時20分.
 両大使はハルから侮蔑の言葉を浴び,顎をしゃくってドアを示された.これ以上はない屈辱だった.
 こうして,プロの外交官達の鈍感極まりない情報感覚が,日本人に「Treacherous Attack」(騙し討ち)の長い汚名を着せることになった.

 戦後に奇怪なことが起きる.
 これほど重大な怠慢と過失を犯したワシントン日本大使館の幹部達が,誰一人責任を問われることなく,殆どの者が出世していく.外務省OB吉田茂が,責任調査の動きを押さえた結果だ.

 それでも,ほんの形式的な調査が昭和20年秋に行われ,その当時の資料9点が,やっと平成6年11月になって外務省から公開される.
 これには奥村書記官の陳述書もあるが,パイロット・メッセージについては「何時にても米側に……」との肝心の部分があったことを抜かしてある.12月6 日の内に,自分が訓令通りに902号電の清書をやっておかなかったことが,覚書手交遅れの最大の原因であったことには,全く触れていない.
 翌7日に自分が出勤してから以後に,大急ぎでタイプを打ったことばかり強調した挙げ句,遂には「私は電信課に対し,最後の1通(902号電14部)はまだかまだかと矢のような催促をした」と,明かな嘘まで述べている始末.
 このような人物を,吉田茂は,敗戦直後の天皇とマッカーサー元帥の会見の通訳に登用し,さらに奥村の公職追放解除後には,外務事務次官という外務官僚最高のポストに抜擢している.

 井口参事官は,昭和17年に帰国した際,東郷茂徳外相に覚書手交遅れの原因を問われ,こう答えている.
「あれは自分の管掌事項ではないので,承知いたしません」
 彼も戦後の公職追放解除後,吉田茂によっていきなり外務事務次官に抜擢される.

 他のワシントンの幹部職員は誰も,だんまりを決め込む.
 寺崎書記官は戦後,皇室御用掛となり「昭和天皇独白録」を編纂する一方,詳細な日記を残しているが,この件に関しては殆ど記述がない.

 当時の中堅・若手職員は,誤魔化しに走る.
 外交官補・藤山楢一は「一青年外交官の太平洋戦争」を著す.
 同書は,送別夕食会が二つあったことも,パイロット・メッセージに「何時にても……」との指示があったことも触れていない.
 覚書手交が遅れた原因は,
「一に『最高機密文書にタイピストを使用してはならない』との訓令にある」としている.
 自分は歴史的大事件のそばにいたから「体験を相当克明にメモしていた」と言いながら,「ではなぜ解読できた分からたいぷを打ち始めなかったか,という疑問がある.この件に関しては関係者は全て個人になっていて,正確には分からない」と逃げ,「私の推測」を述べている.
 曰く,パイロット・メッセージに「文書の整理」とあったのが問題で,「歴史に残る最重要の文書」だから,「結論も分からず出たとこ勝負でタイプしたもの」では,ハル長官に渡すのにはお粗末だから,最後の14部が出るまで清書を待とうということになったのではないか,と.
 タイプに「出たとこ勝負」もへったくれもないのだが…….
 また,「最重要の文書」と認識していたというのなら,奥村書記官がトランプ遊びに出かけた理由が説明できない.

 電信室員,吉田寿一は「諸君」平成4年1月号に,「通告遅れの内幕 日本大使館員にも言わせてくれ」なる手記を発表.送別夕食会から大使館に帰った後で,奥村書記官がタイプを叩いているのを見たと述べるが,そんな証言は吉田以外存在しない.
 そして彼は,奥村がいつまで打っていたかは知らないとする.
 さらに覚書手交の遅れについては,既に決まっていた「7日午後1時」と言うことを知らせずにおいたなどの小細工をした本省のせいだとし,様々な弁解をす るが,「何時にても……」の訓令があったことには全く触れず,奥村書記官が訓令通りに6日から清書にかかっていたなら……ということだけは書いていない.

 他にも雑誌記事や本での証言は幾つかあれど,皆,「何時にても……」の訓令には触れていない.

 近年では,井口参事官の息子の井口武夫(元ニュージーランド大使.東海大教授)が,「真珠湾攻撃 駐米大使館に落ち度なし」(「Ronza」 平成8年1月号)などの記事を発表しているが,やはり「何時にても……」の訓令があったことには触れていない.

 何よりも,平成6年に外務省が前記資料を公開した際に発表した見解,
「申し開きの余地はないものと考えている」
との言葉が,全てを物語っているだろう.(from 「別冊歴史読本 太平洋情報戦」新人物往来社)

 さらに言えば,この通告書には,肝心の宣戦布告にあたる文章が欠落している,
 すなわち,交渉を打ち切る宣言でしかない(執筆者は加瀬俊一アメリカ局第1課長)ので,米国側はこれを受け取った時刻ではなく,帝国議会において開戦の詔勅がなされた時刻をもって,日本からの宣戦布告があった時刻と解釈している.



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Outbreak of the Pacific War FAQ|軍事板常見問題&良レス回収機構 (via petapeta)

戦犯でいいな

(via maconn)

この人たち戦後も順調に出世して外務省の事務次官になったりしてる。オワットル。

(via odakin)

意図的かどうかはともかく、このサボタージュのお陰で米世論を参戦に持っていけたということを戦後の横田幕府が大いに評価して云々

(via tamejirou)


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